私が尊敬しているのは妻だ。なぜなら病気の義理の父に毎日メールを送り続けたから

前回の記事(↓)の続きです。

yoshi-tankun.hatenablog.com

 

長男と妻が中学受験を最後まで戦えたのは円陣のおかげだと思う」のコメント欄にも書きましたが、前回と今回の記事を書こうと思ったきっかけは、百笑一気さんからのコメントでした。私にとっても重要な体験でしたので、きっかけを与えていただけたこと、大変ありがたく思っています。

 

話の続きを始めます。

 

今から十数年前のある日、職場にいた私に母から電話がかかってきた。電話越しでも、母の様子が尋常では無いことが伝わってきた。ようやく絞り出した声で母は、父が命に関わる病気にかかり、回復の見込みはほぼ無い、ということを私に伝えてきた。

 

電話が終わってしばらくの間、私は実感が湧かないでいた。ほんの数ヶ月前、私と妻と父母で夕飯を食べに行った時、私が車の運転をするからといって、父に酒を勧めたら、本当に嬉しそうに飲んでいたのに。思えば、子供3人を育て、外食も極力控えていた父にとって、外でお酒を飲めるなんてほんとうに珍しい機会だったのだろうな。こんなに喜んでくるなら、これからはもっとこういう機会を持っていいかもしれない。そんなことを考えていた時期だったのだ。

 

電話を受けてからおよそ10ヶ月間の闘病の末、父は死んだ。食道癌だったのだ。発見した時点ですでに治療が不可能なほど病状は進行していたのだ。電話をもらってすぐに父に会いに行き、そこですぐに悟ったのだ。ああ、もう父は長く無いのだな、と。いろんな思いが去来した。これから楽しくなる時期だったのに。これまで親子の会話はほとんどなかったから、この間のような外食をもっとしようと思っていたのに。親孝行をもっとしようと思っていたところだったのに。

 

私の心は上記のような後悔の念と父を無くしてしまうことの喪失感に占められていた。この闘病期間中、父や母のためにできることは本当はもっといっぱいあったはずなのに、死に向かっている父の存在が恐ろしくて、身近な人の死と向き合うことが怖くて、自分には父母を積極的に見舞うようなことはできずにいた。結局、私は必要最小限しか父に会いに行かなかったのだ。

 

父の闘病期間中、結局私は親孝行をできずにいたのだ。父の病状を知った時、これまでの自分の親不孝を後悔したのに、闘病期間中も同じことを繰り返してしまったのだ。なんと愚かなことをしたのだろうか。結局自分は、これまでも、父の闘病期間も、自分のこと、自分の気持ちばかりを考えてきたのだと思う。自分の心を守ることばかりを考えていたから、具体的な行動は何もできなかったのだと思う。つまり、私には父母に対する気遣いが足りてなかったのだ。闘病の父の心を慰める気持ちも、闘病の父を支える母をいたわる気持ちも、私の心の中にはほとんど存在しなかったのだ。存在したとしても、後悔や恐怖にくらべれば、とてもちっぽけなものだったのだ。

 

おそらく、私の二人の兄と姉に関しても、似たようなものだったと思う。父が死に向かっているという現実に対して、何もできないでいたのだ。父に向き合うことだけでなく、母をいたわることさえ満足にできずにいた。ほんと、実の子供3人はとても頼りなかったのだ。

 

子供たち3人が父母のために何もできずにいる中で、私の妻だけが違っていた。死にゆく父と向き合えていて、母を気遣う心を持っていて、自分にできることをしていたのだ。だが、死にゆく人に対して一体全体何ができるのだろうか。何をしたらいいのだろうか。当時の自分にはこの答えがわかっていなかった。兄姉も同様だっただろう。抗うことのできない死という圧倒的な現実の前に、いかなる行為も無意味のように感じてしまっていたのだ。だから結局何もできずにいたのだと思う。

 

妻がしたことは極めて平凡なことであり、それでいて非凡なことでもあった。妻はただ、父に対して普通に接していたのだ。普通に毎朝の通勤中に、父にメールをしていた。メールの内容は、前の日の出来事や朝の通勤中の様子など、他愛もないことだったという。そんなメールを父の闘病期間中欠かさず送っていたのだ。結局妻は半年以上そのようなメールを送り続けた。その間、父からメールの返信が来ることはほとんどなかったが、それでも妻はメールを送り続けたのだ。

 

後から母から聞いた話だが、父はこのメールをとても楽しみにしていたのだそうだ。メールの返事ができなかったのも、携帯文化に馴染めていない60近くの親父が若い娘にいったいどんなメールを返していいのかわからない・気恥ずかしい、そんな理由だったのだろう。メールが届くのが遅れた日などには、義理の娘ちゃん、今日はどうしたのかな、と母にボヤいていたそうだ。妻からのメールは、先に見えない闘病生活中の父に確かな潤いを与えていたのだ。

 

父の闘病期間中に妻がメールを送っていることを、実は私も途中から知っていたのだ。知った上で、これがおそらく正しい接し方だろう、ということも理解していたのだ。そこまでわかっていたが、結局私はメールを送ることができなかった。いや、正確にはメールは送ったのだ。だが、1、2通送っただけで、それ以上送り続けることができなかったのだ。どんな内容のメールを送ればいいのか悩み、そのうち億劫になってきて継続できなかった。

 

この期間中、妻も私も病床の父を労りたいという共通も気持ちを持っていたし、二人の置かれた環境もほとんど同じものであった。しかし、私はメールを送ることができず、妻はメールを送り続けた。メールを送ることなどは極めて平凡な行為であるが、義理の父と義理の娘という特殊な関係、父は死に向かう存在、半年以上も継続して実行する、などの要素が重ね合わさることによって、妻の行為は極めて尊く非凡なものへと昇華していく。私には到底できなかった。私にはできなかったことを妻は当たり前のように行っていた。実の子供3人が何もできない中で、妻だけが正解を見つけ、それを当たり前のように実行していのだ。私に代わり父を慰めたことに対する感謝もあったが、それ以上に、妻という人間の偉大さを改めて思い知らされた出来事だったのだ。

 

そう、これが私が妻を尊敬するに至った理由だ。他にもいろいろとすごいことをしてきた妻だと思うが、このことが一番心に残っている。人生の此処一番で、もっとも重要なことを見失わずに選択できる人間は、私ではなくて妻だ、と思い知らされた出来事でもある。そんな訳で、次男のことで妻がすっこんでろ、と言ったのだから、とりあえはお呼びがかかるまではすっこんでいるのが正解なのだと思っている。

 

最後に、親の病気という出来事は、これから多くの人が直面するいろいろと難しい事態だと思うが、今回語った私と妻と父との話が多少なりとも参考になればとても嬉しいと思う。

 

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