あなたはだれを尊敬していますか?

突然ですが、皆さんは尊敬している人がいますか?

 

学校の卒業文集などでは定番の質問で、典型的な回答は、歴史的偉人や著名人だったり、最近だったら自分の親だったりすると思う。定番の質問ではあるのだが、正直、自分が子供の頃、この質問に答えるのにいつも困っていた。なぜなら、特に尊敬する人はいなかったからである。

 

尊敬する人がいないなど随分と生意気なガキだと思われるかもしれないが(まあ、そう思われても仕方がないのだが)、これは子供ながらの無知さと3人目の子供ということで家庭内でもほっとかれ気味だったことに起因する家族への関心の薄さ、最後に無駄な対抗意識、というのが原因だったと思う。

 

家族からはほっとかれていたので、家族といるよりも友達と遊んでいることの方が面白かった。じゃあ、友達の中に尊敬できるやつはいなかったのかというと、残念ながらいなかった。大人の視点でみれば実はすごいやつはいたのかもしれないが、子供視点でみたときに、尊敬できるほどすごいやつはいなかったのだ。

 

じゃあ、歴史上の偉人や著名人はどうなの、となると、そもそもバックグラウンドが自分と違いすぎていてよくわからん、という考えだった。歴史上の偉人たちや著名人と同じ状況・環境に直面していたら自分だってうまくできたかもしれない、こういう思いがあったのだ。こういう「自分だってできたかも」という考えが心のどこかにあって、彼らを素直に尊敬する気が起きなかったのだと思う。

 

ここまで書くとお気付きのことと思うが、自分にとって「誰かを尊敬する」とは「その人に対して敗北を認める」と同義だったのだと思う。そして、無駄な対抗意識から敗北を認めるのが嫌で、結果として尊敬する対象もいない、ということになっていたのだ。そんなわけで、無駄に尊敬することのハードルが高かったのである。

 

こんな自分が誰かを尊敬するとしたら、それは言い訳する余地のない条件下において、明らかな差を見せつけられた時だけだろう。具体的にいえば、自分が重要視している事柄において、自分と同じような環境下(環境による有利不利はない、ということ)で、自分よりも相手のほうが明らかに素晴らしい成果を出したのならば、負けを認めるしかない。尊敬するしかないのだ。

 

こんな無駄に高い条件に該当する事件などそうそう起きないのだが、今から10年以上前にそれは起きたのである。そして、それを成し遂げたのは妻だった。これから語るのは妻が成し遂げた偉業の話で、私が妻に対して心から敗北を認めた事件の話だ。これを読んでいる皆さんにも是非考えてみてほしいと思う。皆さんだったら何ができる(た)のだろうか、と。これから語る状況は、ほとんどの皆さんが直面する(した)状況であり、そのとき私や妻と皆さんの間に大きな環境の差は無いと思う。皆さんなら妻と同じようなことができたのだろうか。残念ながら、私には到底無理だった。

 

長くなったので、続きは次の記事です。

 

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